1800年、刻々と変化する政治情勢の影響を受けつつも「音楽の都」として栄えるオーストリアの首都ウィーン。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(稲垣吾郎)は、豊かな音楽の才能に恵まれながらも、
その複雑で偏屈な性格のため、行く先々で騒ぎを起こしていた。
しかも以前から不調だった聴覚の障害が、次第に深刻さを増していく。
身体のうちにあふれる芳醇な音楽と、現実の不幸の間で引き裂かれ、心すさむベートーヴェン。
だが彼の才能に理解を示すピアノ職人のナネッテ(村川絵梨)とヨハン(岡田義徳)のシュトライヒャー夫妻や、ナネッテの妹マリア(剛力彩芽)、二人の弟ニコラウス(前山剛久)とカスパール(橋本淳)らとの交流が、少しずつ音楽家の内面を変えていく。
病に身をすり減らしながら、頭の中に鳴り響く音楽をひたすら楽譜に書き留め、名曲を生み出し続けるベートーヴェン。
全身全霊を傾けて作曲した「交響曲第九番」が完成し、演奏会で奏でられた時、彼の心の内に響いたものは……。
- 1770年
- 神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ)のボンに生まれる。
祖父は楽長まで務めた宮廷歌手であり、音楽家の家系だった。
- 1774年(4歳)
- 家計を支えていた祖父が前年に死去し、生活は困窮。
この頃より、父ヨハンから虐待ともいうべき音楽教育を受ける。
父も宮廷歌手だったが、酒好きでほぼ収入はなかった。
- 1778年(8歳)
- ケルンで父の弟子と共に初めて公開演奏会を行う。
- 1781年(11歳)
- ネーフェに師事。オルガン、ピアノ、作曲を学ぶ。
- 1782年(12歳)
- 最初の作品『ドレスラーの行進曲による九つの変奏曲』出版。
- 1787年(17歳)
- ウィーンを訪れ、モーツァルトに会う。
母の急な病状悪化でボンに戻るが、死に立ち会えず。
家計を支える一方、酒に溺れる父や二人の弟の世話に追われる。
- 1792年(22歳)
- ウィーンに行き、ハイドンに弟子入り。作曲法を学ぶ。
父ヨハン死去。
- 1798年(28歳)
- この頃より作曲家として有名に。一方で、難聴のきざしも表れる。
- 1802年(32歳)
- 難聴が決定的となり、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。
- 1816年(46歳)
- 補聴器がほとんど役に立たないほど聴力が減退し、会話帳を使い始める。
- 1818年(48歳)
- 『交響曲第九番』着想。
- 1824年(54歳)
- 『交響曲第九番』ウィーンで初演。
聴衆は熱狂したがベートーヴェンは喝采に気づかず。
- 1826年(55歳)
- 甥カール自殺未遂。
- 1827年(56歳)
- 嵐の中、肝硬変のため生涯を閉じる。
葬儀には数万人もの市民が参列した。
ベートーヴェンが書き上げた9番目にして最後の交響曲。初演はウィーンのケルントネル門劇場。
当時すでに聴力を失っていたベートーヴェンには拍手が聞こえず、聴衆の喝采に気づかなかったという逸話がある。
古典派以前のあらゆる音楽の集大成的な側面を持ち、なおかつ、来るべきロマン派音楽の時代の道標となった、記念碑的な大作といわれている。「歓喜の歌(喜びの歌)」と呼ばれる第4楽章の旋律は、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』からの抜粋を一部ベートーヴェンが編集して、曲をつけたもの。こういった独唱&混声合唱の導入や、大規模なオーケストラ編成、1時間を超える長大な演奏時間など、それまでの交響曲の常識を打ち破る大胆な要素を多く持ち、 シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチといった後世の作曲家たちに多大な影響を与えている。